プロフィール
鈴木三重吉(1882〜1936)
 明治15年9月、広島市猿楽町(中区紙屋町)に生まれる。本川小学校、県立第一中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学英文学科に入学。夏目漱石の推挙で『千鳥』(1906)を雑誌『ホトドキス』に発表し、次いで『山彦』(1907)、『小鳥の巣』(1910)、『桑の実』(1913)、『湖水の女』(1916)などの小説を書いた。新鮮な感覚と叙情性によって新浪漫派のさきがけとなった。
 長女の誕生を契機として児童文学に専心し、大正7年7月(1918)、有名な児童雑誌『赤い鳥』を創刊した。その編集と経営に努力し、つづり方や自由詩を指導して児童の創造性を高めた。童謡の発展にも寄与し、大正9年(1920)、日本初の童謡「かなりや」がレコード化された。外国の名作童話の紹介にもつとめるなど、日本の児童文化の創造に大きく貢献した。亡くなるまで『赤い鳥』の編集に携わり、昭和11年6月27日、肺癌のため死去。中区大手町三丁目10-6長遠寺に墓碑がある。
一中時代 赤い鳥創刊号
(鈴木珊吉氏の協力による)
大正14年(43歳)