明治15年(1882) |
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広島市猿楽町(現、大手町)で、父悦二、母ふさの三男として誕生。 |
明治20年(1887) |
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6歳 |
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広島市本川小学校入学。明治24年母ふさ死去(37歳)。腕白で負けず嫌い、しかも神経質であった。母を失った寂しさに、その墓前で遊ぶ孤独壁もあった。 |
明治29年(1896) |
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14歳 |
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広島県立第一中学校へ入学。成績抜群で英語に堪能、バイロンの詩集を愛読。 |
明治37年(1904) |
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22歳 |
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京都第三高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学。夏目漱石の講義を受け、敬愛の念を深める。 |
明治38年(1905) |
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23歳 |
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神経衰弱のため一年間休学。広島の実家や能美島で保養。漱石の作品に感動し、友人中川芳太郎を通して、夏目漱石との文通がはじまる。 |
明治39年(1906) |
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24歳 |
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3月、処女作『千鳥』を書き上げ、漱石に送る。5月、漱石の推賛の辞とともに「ホトトギス」に『千鳥』が発表され、好評。9月上京し復学。漱石の門に入り、高浜虚子、寺田寅彦、小宮豊隆らと知りあう。 |
明治40年(1907) |
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25歳 |
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1月、第二作『山彦』を発表。 |
明治41年(1908) |
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26歳 |
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東京帝国大学英文科を卒業。父悦二他界。10月、成田中学校に教頭として就任。明治43年高濱虚子の依頼で長編『小鳥の巣』を「国民新聞」に連載。 |
明治44年(1911) |
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29歳 |
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ストライキ騒動のため成田中学を辞して上京、5月海城中学に勤務しながら創作を続ける。 |
大正2年(1913) |
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31歳 |
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長編小説『桑の実』を「国民新聞」に連載。 |
大正4年(1915) |
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33歳 |
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『三重吉全作集』を春陽堂より刊行。 |
大正5年(1916) |
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35歳 |
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6月、長女すずが誕生。12月、童話集『湖水の女』を出版。夏目漱石死去。 |
大正7年(1918) |
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36歳 |
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1月、長男珊吉誕生。7月童話と童謡の雑誌『赤い鳥』創刊。「ぽっぽのお手帳」を発表。以後終刊まで童謡、童話、歴史物語、科学読み物など、毎号発表し続ける。北原白秋、
島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、小山内薫、小宮豊隆ら多数の作家が寄稿した。 |
大正8年(1919) |
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37歳 |
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6月、「赤い鳥音楽会」を帝国劇場で開き盛況。 |
大正9年(1920) |
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38歳 |
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6月、日本初の童謡レコード「かなりや」が発売。三重吉が西条八十、成田為三に依頼し、詩にメロディをつけて全国に普及した。 |
大正12年(1923) |
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41歳 |
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9月、関東大震災。『赤い鳥』11月号に『大震火災記』を書き、コンパクトに惨状を伝えた。「地震の話」も掲載し地震発生のメカニズムを解説。 |
大正14年(1925) |
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43歳 |
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『赤い鳥』1月号に宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」の広告を無料で掲載。金子みすずの詩も掲載。 |
昭和2年(1927) |
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45歳 |
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『アンデルセン童話集』をアルスの「日本児童文庫」の一冊として刊行。昭和3年日本騎道少年団を創設。 |
昭和4年(1929) |
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47歳 |
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3月、『赤い鳥』を一時休刊する。6年1月『赤い鳥』を復刊、経営と編集に没頭。 |
昭和7年(1932) |
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50歳 |
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『赤い鳥』1月号に「原子の話」を掲載。原子の威力を解説。 |
昭和10年(1935) |
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53歳 |
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12月、『綴り方読本』を中央公論社から刊行。 |
昭和11年(1936) |
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54歳 |
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6月症状悪化し、東大病院に入院。27日死去。29日西大久保の自邸で告別式。『赤い鳥』8月号をもって終刊。10月、『赤い鳥鈴木三重吉追悼号』刊行される。墓は故郷の菩提寺(広島市中区大手町3-10-6長遠寺)にある。 |